学而第一の一

子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。

研究するのは楽しい。他の研究者が遠くから来てくれたりすると嬉しい。人に評価されなくても気にしない。

論語を30回読め

私は外資コンサルで働いているのですが、先日上司より論語を30回読むように言われました。ところが本を取り寄せて何ページかめくってみたところ、これが非常に面白くないのです。漢文を見るのもセンター試験以来ですし、自分と何の関係があるか分からない文章はどうにも頭に入りません。

自分との関係性が見えないことが興味を失わせている原因であるなら、この問題が解決されれば、すなわち、自分と論語との関係性がはっきりすれば、多少は頭に残るかもしれません。

この仮説を検証するため、論語と私の関係を調べてみることにしました。

手順は以下の通りです。

  • 論語の一節をよく読む。
  • 読んだ一節と自分の経験、知識との繋がりを探す。
  • 日常生活で論語の一節が脳裏に浮かぶか観察する。
本のページ数は400ページもなかったので、一日一節ずつ読んでいけば来年には読了し、観察を進められるはずです。
さっそく読んでみた一節が、冒頭の引用となります。斜体のものは私の訳です。

本日の一節は、論語の学習者への心得のようです。論語孔子が自ら著したものではなく、彼の弟子たちが孔子の言葉をまとめたものであるそうなので、どの順番に並べるのかみんなで相談したに違いありません。

研究者の境遇

彼らは研究の楽しさを謳うと共に、必ずしも評価を受けられない境遇について冒頭に示しました。
研究者を取り巻く環境は二千年も前から変わっていないようです。現代の研究者も、同じ喜びと悩みを共有しています。研究者は研究を行うと共にヒトとして衣食住を獲得してゆかねばなりません。評価されることは、生きるために必要であるため、全く無視するわけにはいかないのです。ここに葛藤が生じます。自分が面白いと思うことを追求したい一方で、評価されるものをつくらなければならない状況、もちろん最高に面白くて、かつ評価される研究ができればこれ以上はありません。しかし、面白い研究は先鋭化しがちであり、その研究が上手くいく可能性は下がっていきます。上手くいきそうな無難なものを研究と呼べるのかはさて置き、銅鉄実験のようなものを行って確実に成果を出し、評価されていこうとする姿勢が生まれるのは当然です。
答えの無い問いに悩み続けながら、論語をまとめていった弟子たちを親密に感じます。

研究を目的とする

また、この一節は才と徳を併せ持つことを学習者に求めているように読めます。研究者の心得として、研究を目的とし、手段としない姿勢を要求していることに、ビジネスマンとしては違和感を感じずにはいられません。とはいえ、評価を目的として追求して行くことは衣食住の充実と同一であり、一軸のシンプルな仕組みになってしまうことで研究本来の価値がすみやかに消失するだろうことを思うと、つとめて評価から引き離していかなければバランスが取れず、論語は残らなかったと考えています。

学習者の心得

論語をまとめた孔子の弟子たちが、二千年後を生きる研究者と同じ葛藤を持っていたことは、論語と私の関係性をはっきりさせるために十分でした。
論語の内容自体から特別に役に立つような答えは得られませんでしたが、面白ければ評価は気にしなくて良いそうなので、これでいいんだと思います。