学而第一の六

子曰。弟子入則孝。出則弟。謹而信。汎愛衆而親仁。行有餘力。則以學文。

孔子が言った。若者は家で親孝行をして、外では年長者を敬わなければならない。慎み深く誠実で、区別なく人々を愛して人格者と親しくし
彼らを手本にしなければならない。その後に余力があれば学問をすべきである。

子曰く、弟子、入りては則ち孝、出ては則ち弟、謹みて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力有らば、則ち以て文を学べ。

 

慣れてきたのか訓読文の方がしっくりくるようになってきた。ここで扱われる学文は議論によって発展、展開していく現代の学問とは異なって、既に確立された最高価値をコピーするものと解釈すると、進歩しうる学問の優先順位はどこにあたるのか。一方で、決済技術に象徴的であるように社会の発展と進歩の拒絶された今日の霞ヶ関では(『0次産業革命 日本から世界へ~30年先の中小企業の未来~』講演会の開催について | 公益社団法人沖縄県情報産業協会(IIA))、ここで述べられた価値観をエミュレートすることが生存に必要だ。

 

リンク切れに備えリンク先テキストコピペ

 

『0次産業革命 日本から世界へ~30年先の中小企業の未来~』講演会の開催について

2018/05/18
平成30年5月18日
内閣府沖縄総合事務局
経済産業部地域経済課
 IoT/AIの登場など、情報通信技術の急速な浸透の中で、私たちの企業ビジネスや生活のあり様が変わりつつあります。また、全国各地域で、産業や地域の生産性向上が叫ばれ、その対応策であるコネクティッドインダストリーズなどの取組が検討・実施されつつあります。
 その一方で、2015年9月に国連サミットで採択された持続可能な開発目標(SDGs)の自然との共存社会の精神を踏まえた経済や社会活動に転換する必要に迫られています。
 これら状況を踏まえ、古来より自然との共生を範とする琉球沖縄の地に、経済産業省から講師をお招きし、次の時代の産業や社会の構造の在り方などを高次な立場から、地域の中小企業の未来を考察する講演会を開催いたしますので、ご案内申し上げます。
日 時:平成30年6月1日(金)17:00~18:30
場 所:沖縄総合事務局10階会議室(那覇市おもろまち2-1-1)
主 催:沖縄総合事務局経済産業部地域経済課
対象者:県内市町村IT担当者、県内企業、金融機関・支援機関担当者等
講 師:経済産業省大臣官房審議官(商務情報政策局担当) 前田泰宏
参加費:無料
申込み:5月30日(水)17時までに、ファクシミリでお申込み下さい
     【FAX申込書】

<お問い合わせ先>
 沖縄総合事務局経済産業部
 地域経済課 多和田、玉城
 TEL:098-866-1730
 FAX:098-860-1375

 

 

 

 

 

 

 

 

学而第一の五

子曰。道千乘之國。敬事而信。節用而愛人。使民以時。

先師がいわれた。――
「千せん乗じょうの国を治める秘訣が三つある。すなわち、国政の一つ一つとまじめに取組んで民の信を得ること、できるだけ国費を節約して民を愛すること、そして、民に労役を課する場合には、農事の妨げにならない季節を選ぶこと、これである」(下村湖人『現代訳論語』)

 

節と愛はふたつだろうに3文にしなければならないほど3は素晴らしいのか。理性で扱えるのは2つまでで、3つめからはよくわからない、三体問題のような事態に陥るのではないか。

分かれているのは境界があるということであって、境界から見れば境界を挟んで対立する二界しかなく3つの世界が境界を挟むことはない。(a, b, c)は(a, (b, c))でも良く、特にここでは(敬事而信, (節用而, 愛人), 使民以時)とまでして3つにしている。(敬事而信, ( (節用而, 愛人), 使民以時))としない理由は3つでないから以外にないのではないか。

 

学而第一の四

曾子曰。吾日三省吾身。爲人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎。

曾子が言った。私は一日に三つ、自分のおこないを反省する。人のために真心をこめて考えたかと。友人と誠実に付き合えたかと。よく知らないことを教えていないかと。

 

やすい!はやい!うまい!

忠信習の3点セットが私の魅力ですというコピーを引いて、この3つが推奨される性質であるとしており、その選定基準はその他の言葉より長く遠くまで届いたということだろう。

 

理想的な判断の主体は万物の霊長である人の個々の認識ではなく、人の集まりが選別した結果がただ人の集まりの理想的な判断であると人の集まりに限定して宣言する態度にあって、その中心に自らを置く論理はまだよくわからない。

学而第一の三

子曰。巧言令色。鮮矣仁。

言葉巧みで魅力的に見せる態度は、仁が少ない。

仁は人に宿るか

仁が少ないのが、巧言令色な態度なのか、それとも巧言令色な態度を取る人なのかはっきりしないのですが、これを人とした場合、仁を保有する人が何らかの良い行いの目的で巧言令色を使った場合おかしくなるので態度にしました。

仁は最高価値とされていますが、ここまで読んだ時点では、態度に宿るのか人格に宿るのかわからないです。

おいおいわかってくるかもしれないので取って置きます。

この一節の解釈については、相手によって態度を変えることを論語が良しとするかしないかで判定可能だと考えています。もし相手によって態度を変えることが仁でないとあれば、一度でも巧言令色な態度を取る人は仁が少ないとみなすことができます。


言葉巧みなプレゼンテーション

ところで、私は業務上頻繁にフレゼンテーションを行います。プレゼンテーションにおいて、話し方や身振りを含めて態度が極めて重要であることは疑う余地がありません。もし台本を棒読みすれば私はたちまち貯金を崩す生活に突入するでしょう。同時に私たちが解決するはずであった問題は取り残され、コストあたりの生産性が低い作業が続けられることとなります。

それを否定する論語は、私が求めるコストパフォーマンスの良い、生産性の高いな世界を求めていないのかもしれません。論語は出発点の既に定められた論理を展開するものではなく、論理の出発点を定めようとする性質のものであるとして読みすすめることにします。

(追記)

巧言令色が自分から見た自分の態度なのか他人から見た自分の態度なのかわからない。


学而第一の二

有子曰。其爲人也孝弟。而好犯上者。鮮矣。不好犯上。而好作亂者。未之有也。君子務本。本立而道生。孝弟也者。其爲仁之本與。

ふたつ目にしてますます自分との関係が見えなくなって困っています。孝弟や君子などと言った用語が並び、それらの概念の理解に自信がありません。

ここが論語の冒頭部であることを考えると、用語の列挙と用例を示すことで、用語の理解を促すものと捉えられるかもしれません。

用語をそのままに訳すと、

孝弟な人は目上の人に逆らわないし、そういう人は争いごとも好まない。君子は本を大切にするが、本があって道をつくれる。孝弟な者であることが仁の本ではないか。

仁というのは人物の美徳のうちで最高のものであるようです。それを孔子の弟子である有子が言っているので、仁を持つ孔子についてのコメントとする解釈も拝見しました。

もしその解釈通りであれば、仁を持った孔子と、仁を目指すことはできるけれども仁を持つことが永遠にできない弟子たちの構図が成り立ってしまうのではないでしょうか。「巨人の肩の上に立つ」訓練を受けた私にとっては、その構図はもちろん、目上の者に逆らわないことが美徳とされることにも強い違和感があります。

巨人の肩の上に立つモデルでは、師匠は常に弟子に越えられるために存在します。師匠は人類の知識を増やし、その知識を当たり前のものとする弟子を育てることで、進歩に貢献します。その時に、師匠の見解を弟子が否定する場面が必ず来るのです。師匠を最高のものと決めてしまったら、どのように進歩させれば良いのでしょうか。

学而第一の一でも研究と人格について触れられていましたが、もし学而第一の二で言うところの目上の者に逆らう行為や、争いごとを起こす行為が、研究内容についても同様に扱われるものであるなら、師匠はルールとして君臨し、彼の時代に解決されなかった問題は未来永劫解決されません。

だんだんと師匠をよいしょする弟子に見えてきてしまいました。とはいえ、この一節を通じて論語の世界で価値が高いとされるものの名前を知ることはできました。


学而第一の一

子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。

研究するのは楽しい。他の研究者が遠くから来てくれたりすると嬉しい。人に評価されなくても気にしない。

論語を30回読め

私は外資コンサルで働いているのですが、先日上司より論語を30回読むように言われました。ところが本を取り寄せて何ページかめくってみたところ、これが非常に面白くないのです。漢文を見るのもセンター試験以来ですし、自分と何の関係があるか分からない文章はどうにも頭に入りません。

自分との関係性が見えないことが興味を失わせている原因であるなら、この問題が解決されれば、すなわち、自分と論語との関係性がはっきりすれば、多少は頭に残るかもしれません。

この仮説を検証するため、論語と私の関係を調べてみることにしました。

手順は以下の通りです。

  • 論語の一節をよく読む。
  • 読んだ一節と自分の経験、知識との繋がりを探す。
  • 日常生活で論語の一節が脳裏に浮かぶか観察する。
本のページ数は400ページもなかったので、一日一節ずつ読んでいけば来年には読了し、観察を進められるはずです。
さっそく読んでみた一節が、冒頭の引用となります。斜体のものは私の訳です。

本日の一節は、論語の学習者への心得のようです。論語孔子が自ら著したものではなく、彼の弟子たちが孔子の言葉をまとめたものであるそうなので、どの順番に並べるのかみんなで相談したに違いありません。

研究者の境遇

彼らは研究の楽しさを謳うと共に、必ずしも評価を受けられない境遇について冒頭に示しました。
研究者を取り巻く環境は二千年も前から変わっていないようです。現代の研究者も、同じ喜びと悩みを共有しています。研究者は研究を行うと共にヒトとして衣食住を獲得してゆかねばなりません。評価されることは、生きるために必要であるため、全く無視するわけにはいかないのです。ここに葛藤が生じます。自分が面白いと思うことを追求したい一方で、評価されるものをつくらなければならない状況、もちろん最高に面白くて、かつ評価される研究ができればこれ以上はありません。しかし、面白い研究は先鋭化しがちであり、その研究が上手くいく可能性は下がっていきます。上手くいきそうな無難なものを研究と呼べるのかはさて置き、銅鉄実験のようなものを行って確実に成果を出し、評価されていこうとする姿勢が生まれるのは当然です。
答えの無い問いに悩み続けながら、論語をまとめていった弟子たちを親密に感じます。

研究を目的とする

また、この一節は才と徳を併せ持つことを学習者に求めているように読めます。研究者の心得として、研究を目的とし、手段としない姿勢を要求していることに、ビジネスマンとしては違和感を感じずにはいられません。とはいえ、評価を目的として追求して行くことは衣食住の充実と同一であり、一軸のシンプルな仕組みになってしまうことで研究本来の価値がすみやかに消失するだろうことを思うと、つとめて評価から引き離していかなければバランスが取れず、論語は残らなかったと考えています。

学習者の心得

論語をまとめた孔子の弟子たちが、二千年後を生きる研究者と同じ葛藤を持っていたことは、論語と私の関係性をはっきりさせるために十分でした。
論語の内容自体から特別に役に立つような答えは得られませんでしたが、面白ければ評価は気にしなくて良いそうなので、これでいいんだと思います。